結論から先に言うと、この数年で世間を賑わせている話題と言えば、なにかとスキャンダル系が多い。
言い直せば、 不祥事、不正と言ったところだ。

思い出してみてくれ、政治、科学、メディア、芸能、音楽、スポーツ、すべての分野で「詐称」がバレて、
人々は「信じていたのに、、、」と落胆する。共通する事例は、挙げるまでもない。

もはや「誰しも完璧ではない」「競争社会の結果だ」など言い訳を超えて、騙されている方が悪いとは思わないか。
まだ白を切るならば、よほどの自惚れだろう。

英語で「一度騙されるのは向こうのせい、二度騙されるのは自分のせい」と言う格言があるが、
何度騙されても、毎回「ええっ?」と演技を繰り返せるほど、世間はお人好しなのか、と思う。
習性かもしれないが、お約束劇場では過ちを犯した人を祭り上げ、フラッシュの拍手喝采を浴びせる。


、、、かと言って、悲観的になる事が答えとは思わない。
純粋過ぎて傷ついた結果、厭世的、閉鎖的になっても困るだけだ。



僕らは、迷いなく、現実的になるべきなのだ。


古びた幻影を捨てて、身辺から修復・構築すべきなのだ。
自分の信頼を置く場所を、考え直す。
その時はとっくに来て、去って行ったのだ。
「確実に信頼を置ける場所」に、時間を投資することこそが、未来への確実な一歩なのだ。

信頼が遠くにあればある程、それは薄いもの。
信頼と距離は、いつだって反比例の関係にある。

だからこそ、本当に近い人に裏切られたり、自らが大きな失敗をした人こそ、痛みを知っている。
しかしこれもまた、成長の糧になる大切な経験であり、決して無駄ではない。

それでは、僕らは何に注意して生きて行けば良いのか?
「注意を払う」と言うが、確かに有限で貴重な時間を「払っている」のである。
脳みそが費やしている時間は、お金に例えれば、立派な出費なのだ。

まずは自分の注意の価値に気付き、それに値するものは何か、決めた方が良いだろう。

大袈裟な話、大手メディアや今の政治が信用できなければ、
「視聴率ゼロ」「投票率ゼロ」の世界があったって良いじゃないか。
(実際に両方とも注視されているが)

何かと関係を持つ前提として、関心を持たなければいけないが、距離を保って付き合うか、断絶するのも立派な選択なのである。


しかし、そこで必ず責任が伴う。無関心と無気力は同じではない。
好きな事に関心を持ち、志を持つことで、社会との関わりが産まれ、生きて行く事が初めて「許される」。
空洞化した社会に代わって、信頼できるメディアを応援し、応援したいコミュニティに参加すれば、貢献は残る。


だから意思表示は、市民として、消費者として、好きな形ですれば良い。
だがリアルな話、分母が大きいほど、個人の意志は砂浜の一粒に過ぎない。
まずは「1/1=自己」から変えて行くことを誓えば、連鎖して周りも変わって行くのだと思う。
それがどの方向性であるかは、自分が舵を取るのだ。


もちろん、時代の波に逆らって生きていれば、それなりに危険はあるし、時には命を賭けて戦わなければいけない時も来る。
それでも尚、自分に素直に生きていれば、その時が来ても準備は出来ているのではないだろうか。

これからの時代において最も必要なのは、揺るぎない「自信」に満ち溢れた人たちなのだ。



- Shing02

 

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