セイジとセイギ

最近のニュースを見る限り、政治が争いを解決しているのか、悪化させているのか怪しくなる。民意を反映させる筈の政治が民衆と対立するのは本末転倒だし、利権絡みの企みがはびこる舞台が現実としても、それに対抗できる「正義のヒーロー」は、空想の世界だけなのか。

正義の「義」とは、何だろう。善悪は誰しも授かっていると思うが、法律や決まり事は、破った時の罰則と言う抑止力がある。違法駐車には罰金があり、スポーツではペナルティがある。

社会においてはマナーとも言うべく、「他人に迷惑をかける行為はしない」と強いることが目的だ。完璧に守ることが非現実的でも、規則を尊重することが前提だ。そのはみ出し具合によって、世間的な「評価」が下る。ただし合法か違法かは、善悪と必ずしも一致しないし、法律さえ流動的なことを忘れてはならない。

個人を中心に言い換えると、「自分がして欲しくないことは、他人にはしない。」このことは、世界中の道徳や宗教でも教わることだし、仮にバレなくても、カルマのポイント制度があるような脅しがある。むしろ、その事を気にせずに歯止めが利かなくなった人間や組織が、最も危険な存在であることは歴史が実証している。

成熟した人間に要求されることは何か。それは、「自分がして欲しいことは、他人にもしてあげられる」と言う精神ではなかろうか。サービスとも言えるが、自己の欲求が満たされていても、困っている時の自分だったらこうして欲しいだろう、と奉仕の精神を持てる余裕。この他人への思いやりこそ、正義と呼びたい。

強者の追従だけでなく、弱者への配慮。大人と子供をとっても、同じ構図。日本では、遠慮が他人への親切を遮ることもあるが、本当に困っている人は、どこに助けを求めるかも分からないこともある。助けを必要とする人にとって、どのような内容と手段が効果的であるか、個人を観察し、彼らの立場から考えて慎重に行わなければいけない。一辺倒の公式が通用しないのは、医療や教育でも同じことが言えるだろう。

正義を自分で守れる人たちが集まり、その共同体でつくったルールを守れば、法律に頼らざるとも、あるいは法の裁きを待たずとも、安心して暮らして行けるのではないだろうか。そこには「共生」と言うテーマが自ずと出てくる。それは社会的にも言えるし、自然界とも折り合いを付けて行かなければいけない。自分たちの世代だけではなく、常に次世代を見越した環境を「作る」以上に、「残す」行為も大切だ。

情報処理の効率が上がり、商業サイクルが加速したおかげで浮き沈みも激しくなり、成功も失敗もずいぶんと速くなった。そこに逆流して「スロービジネス」に乗っかるのも良いが、社会が動いているスピードに背中を向けてしまっては、解決策も見えなくなってしまうだろう。列車が向かう方向には、まず誰かが線路を敷かなければいけない。地道な努力のみが前進を可能にする。

プラスもマイナスも拡大し過ぎては、全体像がなかなか捕らえ辛い。経験値が高い大人はおよそ「楽観的な悲観主義」だ。「どうにかなる、大丈夫だ」と言いながらも、実は何も変わらない、変える気もない、と信じ込んでいる人が多い。逆に、若いほど「悲観的な楽観主義」が台頭している。「世の中は矛盾だらけだけど、どうにか良くしていこうじゃないか」と考えるからこそ、行動にも繋がるし、組織づくりから始める元気も湧いてくる。

変革が大多数に支援されるに越した事はないから、啓蒙を惜しむべきではない。多数決が民主主義の原点だとしても、言論の自由、思想の多様性を守るためにも、意思表示は不可欠である。結果に拘らず、自分の意見を社会の鏡に映してみる。そこに映ったものにズレがあれば襟を正せば良い。今必要なのは、利己的な政治ではなく、派を越えた正義を思い出すことだ。

セイギのイデオロギーを伝えていかなければ、「何でもアリ」の競争理念がまかり通ってしまう。物事には白黒なんてない、グレーだらけ。「限りなく黒に近い白」を白だと開き直る人もいれば、「限りなく白に近い黒」でも黒だと騒ぐ人もいる。定義より、感覚で判断できるような、セイギに一票。

Shing02
 
ele-king Vol.5 寄稿