STAYING ALIVE

何故生きているのか。この問いの答えこそ神の味噌汁であります。ずっと考えて一生を終える人もいれば、何も考えずに仕事に従事する人、読者意見にもあったように、事故に直面して急に「生」を感じることもあるでしょう。生きることとは因果関係だけでなく、偶然と必然の狭間で起きる出会いや事件も沢山あります。誰にも分からないことがあるからこそ、生きることはまだまだ楽しいのです。

この世界は至って不思議、何故なら「生」というものは正体不明の抽象的な現象であり、唯一確実なのは「死」であるからです。だからといって、心配や恐怖、逃避によって人生を支配されてはいけませんし、これは今のメディアの殆どに言える悲しい傾向です。実際、若いうちは死の実感は極めて少ないでしょうし、僕らは今を生きるのが精一杯なため、70才まで生きるのと90才まで生きるのとはあまり変わりないと思っているのではないでしょうか。しかし、それでも良いのです。今から未来の不安を掲げて消極的になってしまっては、ロボット同然です。生死は命の両極端ですが、所詮、人生とはその間に起こる時間の微分積分に過ぎません。要するに、悔いのないように生きれば良いのです。その後、何が起きるかは憶測の域に過ぎませんし、人生の課題をまっとうできない人がどうして次の次元に行っても満たされるでしょうか。

僕が生きていると感じる瞬間の一つとして、「懐かしさ」があります。僕は今までに引越しが多かったためか、物よりも思い出を大切にしています。ふとした街並みや、天気が昔の空気を思い起こさせる、それは小学生の頃の夕方だったり、家族と過ごした正月の朝だったり、新しい街の雰囲気だったり。「ああ、そんな時もあったなあ」と浸る余裕があるときに、生きてるんだ、そして、これからも先があるのだ、と実感します。前に前に、と押される時間に対して立ち止まり、空白を感じるときは幸せと言っても良いでしょう。

生きていると感じるとき、それは「今」を楽しんでいるときではないでしょうか。自分に与えられた人やものに感謝し、受け止める。それはご飯でも、娯楽でも試練でも同じことです。何事にも始まりがあれば終わりがあり、刹那が生まれる。せめてその経験をしている最中に他のことを考えずに集中することが、次の体験をより深く味わうために大切なことだと思います。何故生きているのか。あるいは生かされているのか。誰も見ていなくても、生き続けるのか。「人」という動物は何であり、「今」という時代は自分とどう関わっているのか。生活の領域を超えて生きることを真剣に楽しみたい人には、素晴らしい景色が待っています。世界は広い。さあ、自分の目で確かめよう!
よう!よう!よう!