イカルス

「蝋人形の館」と呼ばれる空間の中は限りなく広く
天井も壁も視界に入らない程で
外に世界が存在するのかも誰も知る由もなかった
この館で日夜、交代で働いている労働者達は
数百人がかりで一つの巨大な轆轤(ろくろ)の形をした機械と格闘をしている
延々と続く畑の作物のように五目状に横たわっている連結された轆轤の怪物の群は
不気味なほど、音を立てずにゆっくりと一斉に回りながら
館を賄うであろうエネルギーを絶えず捻出している
一日の過程はその前日、一昨日と何ら変わらず
明くる日も回し回り続けるだけであった
それでもみんななぜ自分がそこにいるのか
自分の身体がなんでできているかも知らずに、訊かずに
ただ黙々と生活のためだけに働いていた

しかしある日とうとう一人の青年が立ち上がった
名はイカルスといった
彼の若さは探求する心に取り憑かれて
彼はこの巨大な化け物が何のためにあるのか暴いてやる、と言い残
就寝時間の隙に持ち場を離れて、
轆轤に素手素足で登っていった
もう人が蟻のように見える程登り詰めて
ようやくてっぺんに辿り着くとそこでは
更に巨大な釜がぎゃあぎゃあと音を立てて狂ったように湯気を噴いていた
汗だくになって肌に樹脂のようにべとつく湿気と
薄い酸味がかった味が残る臭いは呼吸までをも過酷な重労働に変え
「なんて熱いんだ!ここはまるで地獄だ!」
更に釜の内側をのぞくとそこには凄まじい光景があった
動けなくなった労働者が人形のように釜の中に突き落とされては
煮えたぎる蝋で溶かされ 機械の燃料に変えられていた
それと同時に別の琥珀色の服を着た作業員達が
溶けた蝋で新しい労働者を次々と生産しては
下の轆轤の階へと送り返していた
「おお、なんて事だ!この世界は全くこの繰り返しだったのか」
イカルスは嘆いた
この館の正体は蝋で固めた操り人形の製造工場に過ぎなかったのだ、、、。

気がつくとイカルスは琥珀色の服に囲まれていた
仕事場を離れた上に工場を見てしまった罪は重かった
彼は煮えたぎる釜を背にしてもうすでに後がなかった
「いっそ突き落とされるくらいなら自ら、、、 」
そう決心した瞬間、イカルスはつむじが渦巻く位置に
天に向かって引っぱる力をはっきりと感じた
手をかざしておもむろに上を向くと
彼の頭から一本の白い細い糸が
天井に消えて真っ直ぐに伸びているではないか
彼は思わず糸を手繰って登り始めた 間一髪、追っ手の指先の爪から
逃れるようにして力強く勇敢に登った
そこに迷いはなかった

糸を伝って登ること、何時かが過ぎて
下の景色を振り返るともう群青色の暗闇の中
耐え難く熱くなる一方、空気も滅法薄くなってきた
糸にしがみつく手足の先も溶け始め
握る力を緩めたいと痺れた身体が脳に謙虚に訴え続けていた
それは受け入れても恥ずかしくないことであった
すると遙か上方に黒幕に針で穴を開けたかの様な仄かな光がおぼろげに見えた
昔の生活が脳裏をよぎっていたイカルスは
逆にその苦痛だけを思い返しては
朦朧とするその意識の中にも進む自分を見つけることができた
藤色の光の中の神の域に倒れ込んだ時には、もう既に虫の息であった

イカルスは目が覚めた、でも目は全く開かなかった
指一本動かせず、喋ることも無理だった
鼻から吸い上げる空気はひんやりと冷たく、
クチナシの花の匂いが身体に沁みる
頬には風が当たり、身体は宙に浮き、
滑らかな布で包まれていることが感じ取れた
確かに何かの、誰かの中に居る
彼は頭の中で思いつく疑問を全て素直に吐いた
すると自分の叫ぶ声同様に、頭の中で落ち着いた声が静かに返ってきた
「ぎゃあてい、ぎゃあてい、イカルス、おまえがここに来ることは知っていました 、
しかしあなたは下界に戻ることによって自分の使命を果たすのです」
「自分の使命、なんのことです」
イカルスがそう聞き返すと辺りはすでに暗くなり
目が開くと下の世界に通じる穴だけが光っていた
彼の体は落ちるように吸い込まれて消えていったのだった