折り紙の歴史

<折り紙は、日本が世界に誇る偉大な芸術品>


折り紙の歴史は深く解明されていませんが、始めにその材料となる、紙と和紙の起源を見てみましょう。まず、エジプトのパピルスから三千年が過ぎた後漢時代(25年〜220年)の皇帝、和帝の命により、宮中の御用品製造所の長官だった蔡倫(さいりん)が105年に木の繊維などを用いて紙を発明します。時は更に過ぎて、6世紀中頃には仏教を通じて紙が日本に持ち込まれまれ、7世紀の初めには紙の製法が伝わります。日本で間もなくその製法や材料が大きく変わり、畳んだり広げたりしても破れない、柔軟で美しい紙が作られるようになりました。こうぞ、みつまた、がんぴといった、丈夫でほどよい薄さと柔軟さを持つ日本の紙は、一枚の紙を折ったり曲げたり、いろいろと手をかけて立派な作品に仕上げていく作業にぴったりだったのです。この「和紙」と呼ばれる世界に類のない紙が、色々な文化を生み出し、その中で「折り紙」が育ってきたのです。

一方、製紙法は8世紀にアラブに広まり、12世紀にヨーロッパに伝えられた後、ムーア人を中心にスペインで独自の「折り紙=パピロフレクシア」が生み出され、現在でも欧米で受け継がれています。東洋では、中国や韓国が折り紙の発祥地とする説もありますが、起源に関係なく折り紙の形を芸術にまで昇華させたのは、日本人特有の気質と、和紙の発明による貢献が大きいと言って良いでしょう。今日私達に伝わる伝承折り紙は、東西交流の中で生まれ、育まれた結果、日本独自の文化のみならず、本質的に日欧の雑種と言えるでしょう。

<貴族の儀礼>
日本で和紙が漉き始められた奈良・平安時代から、貴族社会において御幣、人形(形代)、紙垂、結納品の熨斗(のし)アワビの包み紙など、儀礼や祭りとして、貴重で清浄な白紙を「祭忌用」に折ったり切ったり、結んだり、畳んだりしました。 また、公家社会では、和歌や手紙などの贈り物の包みを美しく折って飾ることが流行しました。平安末期には、歌人の藤原清輔が紙で蛙の形をつくり、和歌をつけて人に送ったという記録がありますが、折り紙であったかどうかは定かではありません。

鎌倉時代には朝廷と新たに台頭した上流社会との意思疎通を計る為の大切な手段「礼法」として、贈答・儀礼用の折方は様々に発展し、礼法の家元まで生まれました。贈り物や行事によって、それぞれ包み紙の形式が工夫され、各家元によって 「伊勢」「小笠原」「今川」「嵯峨」など各流派の秘伝として伝えられ、様式的に整えられていったのです。例として、太刀や紙等を贈る際、目録として折り紙を付ける「太刀折紙」「要脚折紙」があります。室町時代の将軍家が礼法を制定したときには、すでに礼法宗家の伊勢家には数十種類もの方式が定められました。

しかし、これらの礼法は近代になって、特に昭和に入って急速に忘れ去られ、現代では、婚礼や進物の贈り物に付ける、赤白の紙を折った飾りである熨斗・目録、そして銚子の飾りである雄蝶・雌蝶などにその影響が残っているに過ぎません。

<庶民の折形>
紙で物を包むことから発展して、1枚の紙をさまざまな形に折って庶民が楽しむようになったのは、江戸時代になってからのことです。この時期に格式ある「儀礼」から「遊び」の折り紙が数多く誕生しました。この頃は、折り紙は一般的に折居・折据(おりすえ)あるいは折形・折方(おりかた)と呼ばれていました。今日も伝承折り紙として親しまれる「おりづる」、「やっこ」など、具体的な物の形に見立てた作品は遊戯折り紙と言い、室町時代に生まれました。それらはもともと、病気や不幸などを人間に代わって背負ってくれるように、という意味を持って折られていたのではないかという説もあります。

紙という素材が増産され印刷出版(木版刷り)も盛んになると、農民の副業として紙漉きが各地に広まり、生産量が増大したために比較的安価な紙が新興の町人文化に広まりました。それに伴って、紙を利用する職業も、カッパ屋、カサ屋、提灯屋、障子屋、造花屋などと増えて行き、紙は生活に欠かせない材料になっていったのです。(この頃には、古紙を集める「紙屑屋(かみくずや)」という商売もあり、古紙回収から再生紙までという、現代と変わらないような紙のリサイクルも成立していました。)文化面でも、紙の需要は高まり、瓦版(かわらばん)、浮世絵、かるたなどに用いられて和紙は黄金時代を迎えます。 元禄時代(1700年ごろ)から、折り鶴や数種類の舟などの折り紙が衣装の模様としても流行し、さかんに浮世絵などにも描かれるようになったことから、折り紙も急速に広まっていったことが分かります。1734年の「欄間図式」には、折り鶴や薦僧(こもそう)のほかに、「荷船」や「足付き三方」、さらに「玉手箱」と呼ばれるユニット折り紙などが見られます。また、この時代には鑑定書に折り紙を使うようになり、「折り紙付き」という言葉が生まれました。

寛政9年(1797年)に、世界でもっとも古い遊戯折り紙テキストである「秘傳千羽鶴折形」には、2羽から97羽までのつなぎ千羽鶴の折り方49種が出ています。(京都の吉野屋為八という版元が出版、3年後に再販。作者は、伊勢国桑名の長円寺住職魯縞庵義道一円、編者は秋里籬島、 絵師は竹原春泉斎)これは、一枚の紙に切り込みを入れ、鶴の群れを口や翼や尾で連結させて切り離さずに折りだすものです。その多彩で高度な技術には驚きますが、当時の折り紙は子どもの遊びだけでなく、大人や名人と呼ばれる人達の楽しみでもあったため、難度の高いものも沢山あり、折り紙が芸術の域にまで発展していたことがよく分かります。
同じ頃には、芝居の忠臣蔵の大序から11段目まで折り方が紹介されている 「折形手本忠臣蔵」(作者不詳)、足立一之『かやら草』(1845年)が出版され、「女大学」「往来物」などの啓蒙書も多く出回り、庶民への折形の流行を助けました。礼法折り紙のテキストとしては、「千羽鶴折形」よりも古い伊勢貞丈の「包之記」(1764年)があります。

近代化された欧米文化の波が押し寄せる明治時代になると、従来の和紙に対して大量生産の可能な洋紙が出現し、片面に色が塗られた正方形の洋紙が折り紙という名で売り出され、いよいよ全国的に広く普及していきました。洋紙を基に新作の型が次々と作られ、今日に伝わる伝承折り紙に加わりました。時の政府はドイツ人のフリードリッヒ・フレーベル(1782-1852、幼稚園創始者)が19世紀中頃に創始した保育法を大幅に取り入れ、文部省の依頼により「折紙」を手工科の教材として学校教育に採用します。その中にヨーロッパの伝承折り紙と、それから発展させた幾何学的な模様折りなどが含まれていて、以降の日本の折り紙に大きな影響を与えました。同時に、欧米の幼稚園も日本の古典折り紙を取り入れ、それまで独立して進化していた東西の折り紙が融合します。明治時代から昭和の敗戦まで、高等女学校や女子師範学校の「作法教科書」にも折形図がのせてあり、折形が「お作法」とともに教えられていたことも分かっています。「折り紙」という言葉も1880年に初めて使われるようになったそうです。

<現代の折り紙>
大正時代に創意工夫を重視する教育界の中では、折り紙は教えられた通りに折る模倣であり、創造的でないという考えが強まり、冷遇された時期もありました。しかし、長い歴史を持つ折り紙文化は見事によみがえり、現代では創作も盛んになり、教育的意味も見直され、豊かな可能性が認識されてきました。こうして江戸時代に選ばれた作品に、明治以降の文明開化の風物を加えた作品が、現在、伝承折り紙として残っているのです。祈願をする時、千羽の鶴を折り束ねる「千羽鶴」の美しい風習や、大人の趣味としてもかつてない勢いで広まってます。

折り鶴が平和の使者として国際的に有名になった理由として、広島で2歳の時に被爆し12歳で亡くなった佐々木禎子さんがいます。彼女は入院先で薬包紙や見舞い品の包装紙で回復を信じて鶴を折り始め、他界するまでに鶴は1300羽以上折られていたと言われています。

日本の芸術的な折り紙を近代の欧米に自ら広めた第一人者として、2005年に94才で他界された吉澤章さんがいます。彼が精力的に作り続けた作品は5万点にも上り、1950年代以降に出版した本により、現在の折り紙図のシンボルが完成されました。彼の日本や海外での展示により、世界各国にも愛好家の組織が結成されています。映画「ブレードランナー」でも意味深なシンボルの役割を果たすなど、「Origami」は、世界の共通言語となっています。

今や折り紙は教育や趣味の範囲も超えて、幾何学やコンピューターグラフィック、航空工学、老化防止、リハビリの分野でも研究の対象として活躍しています。一枚の紙さえあれば、指先により二次元の紙を三次元の作品に変えることができる素晴らしい知恵は、テクノロジーが進化していく後世への遺産になるでしょう。歴史の深い折り紙は時代を越え、場所を選ばず、言葉が通じ合えなくても世界中の人々と楽しむことができます。造形に忠実なリアルなものより風情を求め、ハサミや糊を使わず、他に何も加えずに四角い紙を折るだけで形を完成させるのが、折り紙の醍醐味と言っても良いでしょう。無限の可能性、応用性、創造性を秘めた折り紙は、日本が世界と共有する偉大な芸術なのです。

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