「僕と核」
    (2006)

 

まとめ


このレポートを書くにあたって、何について、どこからどこまで語ればよいのか、とても迷った。集中して、離れて、という作業を繰り返して、少しずつ考えをまとめていった。今でもかなり考え中です。

自分が疑問に思っていることを、ひとつずつ辿って行くと、芋づる式に新たな疑問がどんどん沸いてくる。まさに情報の臨界点で、その規模は、一生をかけても一人で網羅できるものではありません。それでも、できる限り情報を整理することは、物事をいろいろな側面から考えるために大切だと感じます。

レポートを進める上で、色々な人の話を聞いて強く感じたのは、原子力の汚染を、仮定としてでも認めなければ、どのような証拠を見せられても理解に苦しむことでしょう。逆に、その壁をクリアできれば、いろいろなことが見えて来て、新しい情報も自分なりに吸収して繋げて行けると思います。一マス目を踏めるかどうかによって、日々の情報の解釈が、がらりと変わってくると思います。

とにかく、どのような人であろうが、
一個人が全てを理解した上で「賛成」か「反対」の総合的な判断をしろ、と言うのは無理な注文だ。
そんなことは始めから頼まれてないし、だからこそ、ほとんどの人は興味を持つ余裕もないでしょう。

私たちが問いかける必要があるのは、「原子力発電所は良いか、悪いか」ではない。その問いは50年前にされるべきでした。原子力は確かに存在するのだし、消すこともできない。これから長らく付き合っていく必要のあるものです。いちばん現実的なのは、「これ以上増やすのか、それとも減らして行くのか」という具体的な方向性だと思います。

国民の意識にそのベクトルを植え付けることができれば、日本の未来が劇的に変わることは間違いないでしょう。今はそのような重大な決断がお任せコースになっているのが問題ではないでしょうか。原子力はいつかは完全に制御できるかもしれませんが、現時点では語られるべき問題点が山積みになったまま、廃棄物が増え続けているのは誰の目にも明らかです。と同時に、原子力産業だけを非難して他のことを忘れるようでは、本物の変革は期待できないでしょう。そこを限定して見てしまうと、現実と折り合いを付けることが難しくなると思います。

自分も含め、多くの人は原子力産業に関わっていませんし、詳しく知る機会もありません。原子力産業は、当たり前のことですが、必要性のアピールしかしないですし、一般の人は小さな事故が起きる度に、より大きな事故に繋がるのでは、と同じ論争が繰り返されます。双方が理想ばかりを主張して、あげ足を取り合っているうちは埒があきません。自分たちの住む世界で何が起きているのか、現実を見て、目を覚ますことが必要です。完璧な答えが見つからなくとも、ちょっとずつでも行動に移して積み重ねていけば、先の景色は雲泥の差になります。こればかりは科学の力に頼ることはできない。人の力が大事になります。

むろん、健康を守ることや環境保護だけを目的とすれば、どのような産業も成り立たなくなるでしょう。社会的には、「環境や健康に少々悪くても、便利な生活のためなら良い」とあきらめていることや、むしろ奨励されていることも多々あります。コンピュータひとつをとっても、電化製品は、製造、消費、廃棄のレベルにおいて、環境に多くの負荷をかけているものだ。それは、極論を言えば、一人の人間にも当てはまることだと思います。

今の水や空気は、50年前、100年前よりも、ずっと、ずっと、ずっと汚れてしまっている。自然が浄化してくれる以上に、人がきれいにしようと努力する以上に、それを汚し続けている。まずこれを肝に命じなければ、何を言われても流してしまうでしょう。
数十年前まで飲み水にしていた水源が、そのままでは使えないところが多いのです。
将来は、燃料資源より先に、大規模な水の危機が来るのではないかと心配している学者も多いくらいです。すでに世界では水や食料危機が訪れている場所も沢山あります。また、環境破壊によって、何億年も存在してきた多くの動植物が、地球から消えて行っています。あと30年で生物の20%が、今世紀中には50%が絶滅する危機に立たされています。地球にこれだけの変化があって、人類だけが平気でいられると思いますか。

これらの由々しき事態を地球規模で表すとしたら、エネルギーの「偏り」が色々な所で起きてしまっていることが分かります。その時代によってチャレンジがあるのは当たり前かもしれませんが、未来のエネルギー分布が少しでも正常であるように努力することが、それぞれの持ち場で出来ることではないでしょうか。

<宇宙の中の、社会という生命体>

もう一度言うと、私たちの住んでいる宇宙には「エネルギーの保存の法則」というものがあります。エネルギーは、無から産まれたり、消えて無になることは絶対にない、という意味です。

私たちの生活を支えている経済のサイクルでは、人のエネルギーの「保存の法則」が働いています。そのためにある共通の単位として、お金が機能しています。労働力がお金に換算され、富の集中をつくる資本主義のシステムの中で、人のエネルギーが統率されていく。しかし、このお金というシステムは限られた循環を表しているだけです。お金は、「人と人の間でやり取りされるエネルギーの対価」として支払われるのであって、人の労働力とアイディアを売買しているに過ぎません。地球からは請求書が来ないので、「人と自然の間で起きるエネルギーのやり取り」を換算することはできません。

人間はお金をもらってももらわなくても、エネルギーを使って、エネルギーを発散しています。無数の原子や分子を、右から左に運んだり、伝導したり、加工したり、壊したり、消化したり、捨てたり、たくさんのエネルギーを動かしています。それに加えて、言葉を交したり、いろいろな周波数に乗っけて、精神的、霊的なエネルギーも発信しています。人間の出力が、それを受けた人々の行動によって、また物理的エネルギーに変換されるのです。こうして、人は社会の総エネルギーに確かに貢献しています。私たちのあらゆる言動は、明らかに宇宙を変えていて、未来をつくっていく力を持っているのです。

エネエネ何が言いたいかと言うと、経済的な活動を優先させてばかりいると、その閉じたシステムの外で起きている膨大なエネルギーの移動、集中、分散に関心が薄くなっていきます。社会にとって効率の良いものを求める体制が目立つようになります。そして、生活水準も高まることによって過半数の生活が苦しくなるほど、その価値観に従わざるを得なくなるサイクルが出来上がってしまうのです。すべてのエネルギーを辿っていけば、どこからか来ているように、お金も辿って行けば、それはどこかから出ていて、何者かの意志が反映されている訳です。それがどうした、と思えばそれまでですが、全体の集合意識はどのように操作されて、何処に向かっているのかを見極めることは肝心だと思います。

先進国に生きる私たちは、「経済に悪いことが起きれば、自分たちの生活も危うくなる」 という恐れが、幼い頃からメディアによって擦り込まれています。それに従っていては、いつまで経っても、経済が発展するほど環境が悪くなっていくと言う悪循環は終わりません。これからは、システムが需要をつくり上げ、その需要のためにつくられるシステムではなく、人々の意志をちゃんと反映させた社会づくりが必要であり、それは小さなコミュティのレベルから可能だと思います。良い意味でのリスク、良い副産物を期待できる有機的なステップを踏み出すほかありません。

また、このレポートでさんざん科学的な話をした上でなんなんですが、僕は科学的根拠がすべてとは思わない。科学はどんなに進歩しようが、それは実験によって確かめられる物理現象を分析しているだけであって、宇宙の真理の半分を解明しようとしているに過ぎない。「科学」は宇宙の歯車を細部まで説明出来ても、「なぜ、そこにあるのか」という領域までは入って行く権限がありません。現代文明は、自分たちが造った物に過信して、目に見えるものばかり追い求めて、そこで返ってくる答えで満足しようとしている。目が見えることは既に奇跡的なメカニズムだと思うけど、それでも目に見える世界はほんの僅かだ。自分たちの行いが自然から跳ね返って来て、たくさんの信号が届いているとしたら、私たちにはそれが見えているでしょうか?

原子力は無限に小さい世界ですが、人間には五感で分かる範囲で正しい判断をする能力が備わっています。歴史から学び、今を生きながら、未来を変える、と言う力が、ひとりひとりの「核」に委ねられています。今、すべてを変えるのは難しい。それでも、正しい判断の基準となる知識を広めていけば、有機的な運動をつくっていけるだろう。どんな職業をしていようが、度合いこそ違えど、誰もが科学者であり、数学者であり、政治家であり、哲学者であるし、普段の生活でそれを発揮しているのだ。人間にはそれだけの「能力」があるゆえ、もう少し賢くあれるはずです。21世紀は、領土や資源を奪う争いだけでなく、環境と情報の汚染による「見えない戦争」が主になって来ています。

世論を動かす大衆と、その架け橋になる共通のメディアと、一丸となればどんなに重いものだってかんたんに動かせる。日本だけでも一億以上の人間がいるのです。まとまった方向に向かえば、それこそ巨大な力です。50年後の世界はどうなっているか分かりませんが、今産まれてくる赤ちゃんたちが動かす世界であるから、若ければ若いほど、生き残るための知恵を教えてあげることが大切です。だから自分たちがどこに意識を向けるかを、ちょっと気を付けるだけでも、革命的なことになる。革命とは、物事を根本から疑うことによって価値観を修正するという、精神的行為から始まるのです。

人々の力で行政を変えるチャンスが限りなくゼロに近かったとしても、このようなレポートを書く意義はあるのか?それは、ガッデムもちろんです。一般のレベルでできることは、何も団結して大企業や政府に立ち向かうことだけではありません。規模にかんけいなく、知恵を交換してお互いを守ることはできる。大切に思う人たちの間で実践できる、かんたんな助け合いの精神ではないでしょうか。なるようになれ、ではこのままひどくなっていく一方です。一人の力では、何も変わらないからと信じ込んで何もしないでいるのは、この先、何も変わらないことより、何もしなかったことの方が大問題になるだろう。

人間の一生は、長くもあり、短くもある。
死を恐れていたら、生きることも恐れてしまうだろう。
「立つ鳥、跡を濁さず」
と言うことわざがあるが、それを心がけたいものです。
(これ、原子力産業の標語にして、額に入れて飾ってもらいましょう。)

この世界は、人間社会よりずっと広い。いつの時代も、約束されていることは何もない。それでもこの世代が動けば、より住みたいと思える未来をつくることができるかもしれない。この世代というのは、いま生きているひとたち全員だ。この星は、まだまだ美しい。全世界が抱えている原子力問題の解決の糸口を、日本から発信していけると僕は強く信じています。日本やアメリカでは、自由に発言する権利がまだある有り難さを、ひしひしとかみしめて。

ご清読有り難うございました。また次回!

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